浜寺は変わっちまった

大阪の旅を終え、南海線難波から関空に向かった8月11日、急行に乗らず和歌山市行き普通に乗ったのは堺市の浜寺公園駅で途中下車するためだった。浜寺は戦前の別荘地で、ぼくたちの少年期、父方の祖父母の大邸宅があった。短期間祖父母の元で暮らしたことがあり思い出深い地だ。

11歳だった昭和34(1959)年4月、河内市立中央小学校での5年生新学期を迎えた記憶がないので、この時、堺市浜寺昭和小学校に転校したのだろう。両親が仲違いして、ぼくと次弟(当時小3)のふたりが浜寺昭和町の父方の祖父母宅へ。妹と末弟は母のもとへ。その間のことは2011年1月、ブログに書いた。以下のURLをクリックしてください。

 https://makanangin.at.webry.info/201101/article_28.html


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浜寺公園駅には大阪外語大生だった1970か71年ごろ最後に行った。50年ぶりに降り立った駅はおそろしくさびれているように思えた。前日、おとづれた近鉄若江岩田駅(小学時代を過ごした)も、阪急曽根駅(卒業した豊中市立一中最寄り)はともに昔の小さな地上駅から大きな橋上駅になっていたのに。

iPhoneのMAPで祖父母宅だった「堺市浜寺昭和町5丁×××」までの経路を辿るも、景色は記憶とは全く違う。広々とした敷地に立派な門構えの邸宅がポツポツとあった。それがマッチ箱のような庭のない小住宅とマンションがひしめき合っている。ターミナル駅まで小一時間のありふれたベッドタウンに成り下がっていた。
 iPhoneのナビは正確だった。なんとなく見覚えのある一部二階建ての民家の板塀に長細い表示板。そこには呪文のように唱えた時期もあった住所が書かれていた。
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表札には僕らの父方の姓「森」ではなく別の名が書かれていた。

 祖父は岐阜県出身。大阪に出て鍛冶職人から身を起こして「森精密鉄工所」を経営。大阪市港区に本宅、美しい松原で有名だった浜寺に別荘を構えた。太平洋戦争末期の空襲で本宅が全焼、浜寺の別荘を本宅にして戦後を迎えた。戦時の軍需、戦後も朝鮮戦争の金ヘン景気に乗ってさらに富を築いた。しかし、家庭教育をおろそかにしたのか、我が父(3男=長男が早世し、事実上は2男)を含め後継者に恵まれず、末子が後継した1970年代に倒産した。

 1970年の少し前、居室にしつらえた数匹の飼い犬の犬小屋から出火して屋敷が全焼した。それまでの「おじいちゃんの家」は敷地面積は300坪くらいはあったろうか。住宅の裏側三方は日本庭園のような庭に囲まれていた。松や銀杏、モクレンなどの巨木が配され、その下にはシダ類やトクサが生い茂り、石灯篭もいくつかあった。親戚中が集まって新春の宴を開く大広間から縁側を隔てた中庭には大きな池が掘られ、真ん中には噴水台があった。池の底には碁石の親玉みたいな黒い石が敷き詰められ、水が張られている光景を思い出せない。枯山水なのか。

 肝心の住宅は木造二階建て。それぞれの部屋の区切り上部には欄間になっていた。1階の洋風応接間にはアップライトのピアノが置かれ、ぼくより5歳年上の叔母(これがとんでもないヤツ)が後年、聴いたソルフェージュ、バイエルンなどを弾いていた。2階にも大広間、客間があり、タイマイのはく製というのだろうか、浦島太郎がのるような大きな亀の置物があった。実際に、孫たちは浦島ごっこをしたが、びくともしなかった。

 全焼したあとの平屋建てはそれなりに立派な構えだったが、外からみても往時の大豪邸とは比べるべくもなかった。実は、今の家人と付き合い始めた1970か71年ごろ、浜寺公園界隈に誘ったことがある。ふと思い出して祖父母の家の前まで来たことがあった。最近その話をしたら、大きな家だな」と思ったという。焼ける前はそれどころではなかったのだ。

祖父は明治25(1892)年生まれ。昭和54年没、享年86。ぼくが2年後の妻を連れて、玄関前に立ったが、呼び鈴を押す勇気はなかった。勝手にひねくれて義絶状態にしていたのだった。

 こんな話を書くのは、自分の手柄でもないご先祖さんの束の間の富裕ぶりを自慢しようというのではない。そんな時代もあったというだけの話さ。

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