心のふるさと河内の若江岩田 その五 一人旅の出発点 若江岩田駅
今思うと、ぼくは小学低学年(1、2年生)で、一人で電車に乗って、布施や上本町に行ってたなあ。布施と今里の中間に母の養父母が住んでいて、実の孫同然にかわいがってもらった。近鉄奈良線の終点(いまは途中駅)上本町には近鉄デパートがあって、屋上遊園地が目的。こじつければ、近鉄奈良線の若江岩田駅は、後半生、大阪を去り北海道に移住、職を得てからも国内外の旅に出ることの多かったぼくのいわば、一人旅の出発点みたいな駅だということもできる。
今回の旅で何十年ぶりかで下車した若江岩田駅。東西を走る近鉄線を境に北側が岩田、南側が若江地区なので駅名がそうなったのだろう。若江の方には全く用事がなく、駅の南側のことは今も昔も全く知らない。ぼくにしてみれば、単なる地理上の名称に過ぎない。両地区を結ぶ商店街とは、平面交差していたことしか知らないが、今は立体交差し、大きな橋上駅になっている。
「今里のおじいいちゃん、おばちゃん」と呼ぶ母の養父母宅は本当に布施ー今里両駅の中間にあり、上本町の方から来ると、今里で降り、若江岩田から来ると布施で降りる。
両親から教えられたのかどうかは分からないが、小学低学年で、そういう合理性を身に付けていたように思う。布施駅前は、岩田商店街とは比べ物にならない大きな商店街になっていて、父母に寿司を食べに連れて行ってもらったり、スポーツ用品店に独りで行って野球のユニフォームを注文して、後日また独りで取りに行った。ユニホームの胸のマークはないのに背番号だけは34。国鉄の金田ではなく、読売(その頃はぼくも巨人と言ってました)の義原。左のクロスファイア、米子東高校出身。
祖父母の家にたどり着くまでの空き地に土管が並べてあって、むしろを下ろして住んでいる人もいた時代だ。鶴橋で国鉄(環状線になったのはいつだろうか)に乗り換え、梅田に行くとき、森の宮駅最寄りの大阪城の周囲は、空襲で鉄骨だけになった軍需工廠跡が無残な姿をさらしていた。
いつの間にか森之宮と京橋の間に「大阪城公園」という駅ができて、お城を中心に美しく整備されているのを見て驚いたのを思い出す。
話が若江岩田駅から始まって、脱線してしまった。話をもとに戻すと、小学低学年のころ、若江岩田駅で、独りで小人の切符を買って布施や上本町に行くときの胸の高鳴りははっきりと記憶している。子供心に日常から非日常、外の世界に飛び出す快感を味わっていたのだろうと、後付け感情移入をさせてもらおう。

今回の旅で何十年ぶりかで下車した若江岩田駅。東西を走る近鉄線を境に北側が岩田、南側が若江地区なので駅名がそうなったのだろう。若江の方には全く用事がなく、駅の南側のことは今も昔も全く知らない。ぼくにしてみれば、単なる地理上の名称に過ぎない。両地区を結ぶ商店街とは、平面交差していたことしか知らないが、今は立体交差し、大きな橋上駅になっている。
「今里のおじいいちゃん、おばちゃん」と呼ぶ母の養父母宅は本当に布施ー今里両駅の中間にあり、上本町の方から来ると、今里で降り、若江岩田から来ると布施で降りる。
両親から教えられたのかどうかは分からないが、小学低学年で、そういう合理性を身に付けていたように思う。布施駅前は、岩田商店街とは比べ物にならない大きな商店街になっていて、父母に寿司を食べに連れて行ってもらったり、スポーツ用品店に独りで行って野球のユニフォームを注文して、後日また独りで取りに行った。ユニホームの胸のマークはないのに背番号だけは34。国鉄の金田ではなく、読売(その頃はぼくも巨人と言ってました)の義原。左のクロスファイア、米子東高校出身。
祖父母の家にたどり着くまでの空き地に土管が並べてあって、むしろを下ろして住んでいる人もいた時代だ。鶴橋で国鉄(環状線になったのはいつだろうか)に乗り換え、梅田に行くとき、森の宮駅最寄りの大阪城の周囲は、空襲で鉄骨だけになった軍需工廠跡が無残な姿をさらしていた。
いつの間にか森之宮と京橋の間に「大阪城公園」という駅ができて、お城を中心に美しく整備されているのを見て驚いたのを思い出す。
話が若江岩田駅から始まって、脱線してしまった。話をもとに戻すと、小学低学年のころ、若江岩田駅で、独りで小人の切符を買って布施や上本町に行くときの胸の高鳴りははっきりと記憶している。子供心に日常から非日常、外の世界に飛び出す快感を味わっていたのだろうと、後付け感情移入をさせてもらおう。
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