心のふるさと河内の若江岩田 その三 岩田の墓市

現在の東大阪市岩田5丁目に江戸時代、いやもっと古くからの大きな墓地がある。ぼくが幼年期を過ごした1950年代、河内市岩田だったころ、この墓の開祖、行基上人の命日に因み、毎年8月11日に、墓地に接続する岩田商店街で露店の市が立った。岩田の墓市だ。ネットで以下のような情報を得た。
IMG_7387.PNGInkedIMG_7388_LI.jpg

 ぼくたち三男1女の4人きょうだい(末弟は1961年6月7日に死亡)が1957年前後暮らした岩田商店街の電気屋さん「つるや電気商会」の2階住宅からは岩田墓地が見えた。葬儀があると、現代のように霊柩車と参列者をのせたバスが一直線に墓地内の火葬場に向かうのでなく、棺桶を神輿かつぎするのを先頭に長い、葬列が商店街を静々と進んだ。子供たちが葬列に掛けよると、葬式饅頭と呼ばれる菓子をふるまった。ぼくはもらいに行ったことはなかった。

 そしてその夜はあの嫌な、遺体を焼くにおいが商店街に漂う。我が家の二階窓を開けると、墓地の一番奥にある「焼き場」の白い壁が赤く染まるのが見える。

 「なぜ人間は死ぬのだろうか」と真剣に悩み始めたのもそのころだった。
IMG_20210817_0001.jpg1957年ごろ、9歳のぼく(写真中央)は「なぜ人間は死ぬのだろうか」と悩んでいた。独立店舗の「つるや電気商会」の店先で。右端は33歳の母(現在97歳)、左端は母の養母(故人)、前列左は次弟(現在71歳)、右は妹(同68歳)

心のふるさと河内の若江岩田 その二で、つるや電気商会は公設市場時代とその南隣の独立店舗時代があると書いたが、実は市場時代の前に、初代つるや時代があった。ぼくが玉川町(河内市の前身)立玉川幼稚園に上がる少し前だから1953(昭和28)年ごろか、市場の南筋向いの民家(中島さんと言ったはず)の一階、畳4枚ほどの広さに間仕切りして借りた。ここで実績を積み、ホップ・ステップ・ジャンプの三段跳びで5年も経たずかなり大きな独立店舗に成り上がった。

電話を引いたのも新しい独立店舗の時からだった。番号は今でも覚えている。局番はまだなかった。河内の155番。つるやの親父はヒト・イイ(人いい)と呼ばせた。

 父母がえらかったのは、「中島さん」時代から、毎年8月11日の墓市には電気店の店先にリンゴ箱の上に雨戸を乗せたような屋台を出し、露天商墓市に参加した。ラジオや電気スタンドなど家電製品だけでなく、母の養父母の親戚が営む帽子工場からハンチング、登山帽、野球帽を仕入れて、屋台に並べた。これは市場店に移っても続けた。独立店舗でも続けたかは記憶が途切れる。

そんな勤勉さを独立店舗に移って後も続けていれば、ぼくらの人生も違ったものになっていたかもしれないのだが、結果は58年春の一家離散に陥る。

 商売が軌道に乗るまでの父はとても勤勉だったと今もぼくは振り返る。南海電車難波駅に近い古道具屋街「五階百貨店」に通い商売道具や生活用具を安く買ってきて自分で取りつけたり、徹夜で店の陳列や大掃除をしたり姿を見て育った。おんぼろぼろ長屋から段階的に宿替えして大きな店舗兼住宅を手に入れてから、放蕩を始めた。一体父の心に何が宿ったのだろうか。ぼくが小6、12歳だったから36歳の時、離婚、満49歳で他界した父。もう聴くこともできないし、それを少なず知る母は97歳で大きな病気を抱えてる。この人からも聴くのはもう無理だろう。
 
IMG_7216.jpg左側の3階建てアパートに隣接する白壁が「焼き場」。1950年代当時が薪を燃料にしていたのだろうが、今は電力だと、お参りに来ていた人が教えてくれた

今回のふるさと再訪のたびで8月10日、玉川小学校、竹内そろばん学校に続いて、岩田墓地をも訪れた。墓石は昔よりさらに密集していた。昭和に少年Yを悩ませた焼き場は昔と同じ白い壁だったが、今は電気による「お焚き上げ」に変っていた。驚いたことに、焼き場から、数メートル離れただけの隣接地に、3階建てアパートがある。電気だから無臭なのだろうが。





ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント