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zoom RSS 1972稚内大停電

<<   作成日時 : 2013/01/12 05:55   >>

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 年末、札幌から送ってもらった北海道新聞をみて、11月27日から30日まで4日間、室蘭・登別地方が風雪害による大停電に見舞われた様子がよくわかった。その40年前、わたしが稚内で新聞記者生活を始めた1972年の暮れ、12月1日から稚内地方が約1週間の大停電になったのと酷似している。

 12月1日、朝から吹雪いていたが、稚内ではめずらしいことではない。キタは稚内市大黒5の宗谷支庁玄関を入ってすぐ左の記者室で、12時45分からのNHK連続テレビドラマ「藍より青く」を見ていた。終わりかけた時、停電になった。それがよもや1週間続く停電の幕開けとは思わなった。

 【稚内】水が出ない、と泣き出しそうな市民。石油ストープをたけない寒い部屋で震える子供たち。暴風雪で一日午後から全市が停電している稚内市民は、不安のドン底に突き落とされた。国道、鉄道、海路が閉ざされた同市とその周辺は、休校や日用品の品不足も出始め"陸の孤島"の状態に追い込まれている。
 荒波が砕け散る宗谷沿岸のあちこちや稚内に通じる道路沿線では、電柱がポキポキと折れ、倒れていた。
稚内市内も一日昼過ぎから全戸停電が続いている。

 これはたぶん、道新稚内支局の1年先輩記者、本間至能富さん(後の北海道新聞取締役総務局長、UHB北海道文化放送取締役)の原稿だろう。わたしはその年の4月入社したばかりで、情報を入れただけだったはず。私は宗谷支庁を中心に、本間さんは稚内市役所を中心に取材していた。

   
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1972年稚内の大停電、送電線がくの字になって倒れている=当時の北電提供写真らしい。道新では天塩支局で撮った自前の写真があると思うが記憶は定かではない

 停電の原因は道北地方が猛烈な吹雪に見舞われ、北電の高圧送電線の鉄塔がサロベツ原野あたりで湿雪の重みに耐えきれずくの字に折れ曲がって次々と倒れ、送電線網をズタズタに寸断したためだった。

  1週間の停電で人口5万5千の水産基地稚内が一番音をあげたのが、魚類を保管する大型冷蔵庫だった。サケやスケソの鮮度がさがり大きな損害がでた。いっそう深刻だったのは冷凍用のアンモニアガスが長期停電のため管から漏れ出す危険性がでたこと。これらは記事化されたが、ほとんど、本間さんの取材だった。たった1年の記者経験の差でこんなにも取材力が違うものかと、愕然となった記憶がある。

 民生も大きなダメージを受けた。しかし、今回の室蘭停電よりはましだったはず。サンデンのポット式ストーブは通常は電気モーターによる強制排煙だが、電気がなくても自然通気に切り替えると、温まった煙は煙筒を伝って外に出ていく、ドリフト現象を利用して排気することができた。電話もまだ磁石式だったから、停電の時もかけられた。

 その点、今回は携帯電話は充電できず、自然通気で使える暖房施設もないだろう。四六時中布団にくるまっている生活が紹介されていた。

  しかし、40年前も、電気がなければ、書いた原稿をファクシミリで札幌の本社に送れない。撮った写真を現像焼き付けすることも、電送機で送ることもできない。どうしたかといえば、補助電力のある電電公社と海上保安部に行き、送らせてもらった。

 支局で長く原稿を書いていると、ろうそくの煙が眼にしみてくる。しかし贅沢はいえない。送電線の復旧のめどが立たず、停電がいよいよ長期化することが分かった段階で、浜森辰雄稚内市長(故人)は市内各家庭にろうそくを配布することを指示した。

 大停電のさなか、衆議院議員選挙(投票日12月10日)の立会演説会が稚内産業会館で行われ、会館の庭に大きな発電車が待機した記憶がある。

 毎日、毎日書いた原稿と、ニコマートに入った未現像のフィルムを持って電電公社に行くのは大変だった。小田島和善支局長(故人)が本社に石油で動く発電機を本社に要請、到着した日に電気が復旧してみんなで苦笑した。

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2012年の室蘭・登別大停電。11月28日道新朝刊3面の倒壊した送電線鉄塔
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道新28日朝刊1面

ざっと以上のような記憶があります。
 今回の室蘭停電禍の紙面を見ると、28日1面トップ主見出しに「登別の鉄塔が倒壊」とあるのに、その写真がなく、暗がりの避難所の写真。ここはやはり、送電鉄塔の倒壊の写真だろう。40年前はサロベツ原野で何基もくの字になって倒れる鉄塔が1面を飾ったと記憶している。帰国したら、道新本社に行って確かめてみたい。

 72年大停電の後日談。送電線に付着した湿雪の重みに耐えきれずくの字に曲がって倒れた鉄塔に配慮して、北電は送電線に金属のリングを装着した。湿雪付着防止リング。またバックアップ用の灯油式火力発電プラントを大停電直後、市内緑地区に設置、灯油を備蓄した。40年前の経験を今回どう活かしたのだろう。

 北海道新聞を12月5日まで通して読む限り、稚内停電禍の記述はほとんどない。当時一緒に取材した本間至能富さんはその10年後、社会部でご一緒し、さらにその20年後の2006年、一緒に取締役になり、経営の一翼を担いました。よくよく縁のある人。また、本間さんは停電禍の翌年1973年秋に室蘭支社に転勤。40年を隔てた二つの大停電をどう比較しておられるか聞いてみたい気がする。いまは札幌で悠々自適の日々と聞きます。

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Kita, WHO?

1948年大阪生まれ。元北海道新聞記者。11年3月から13年3月まで、JICAシニアボランティアとしてモンゴル国立農大(ХААИС)ダルハン校でエコツーリズムと基礎日本語を教えた。趣味は渓流釣り、映画、クラシック音楽鑑賞、漢字書道。書号は景泉 にほんブログ村 海外生活ブログ モンゴル情報へ
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